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あれから30年……………
1月17日。
毎年この日が来るたびに特別な想いになりますね。
あのとき、私は吹田市の自宅で寝ておりました。
「あれ?地震?」
揺れの大きさにビックリして目が覚めましたが、その後にやってきた
グラグラグラグラ!
という激しい揺れ。
がっしゃーんっと音を立てて、テレビやビデオが台の上から落ち、
壁掛け時計が床に落ちてガラスが割れました。
あーあ、ガラスの破片を片付けなきゃ、と思って布団から起き出し、
割れた破片を集めてゴミ箱に捨てて、テレビやビデオを台の上に戻し、
ポンってテレビの電源を入れ、映し出された映像を見て
こりゃアカン!
と大あわてで服を着て店に向かいました。
映し出された映像はいつも見ていた「おはよう朝日です」
お天気の正木 明さんがそのとき立っていたのは、朝日放送の当時の社屋の
横の車のショールーム前。
見慣れた光景ですが、ショールームのガラスがバリバリに割れていました。
当時、私が勤務していたのは大阪 吹田市の新御堂筋前の店舗。
同じようにガラスが張られた店なので、ひょっとすると同じように割れていれば
大変!と思ったのです。
5階建ての店のウチの店。
1階のショーウィンドウは幸いにして割れていませんでした。
慌てて鍵を開けて中に入り確認したところ、1階部分は多少荒れてはいましたが
マネキンが倒れることもなく、ホッと胸をなでおろしました。
2階に上がると、揺れは上の方が強かったのか、マネキンは倒れてはいましたが
大きな損傷はなく、そのまま3階、4階、5階と上がって行きました。
一番上の階の5階につくと、がっしりと閉めないと閉まらない窓が開いていたり、
ちょっと考えられないくらいの力が働いたことは理解できましたが、下から上まで
ザッと見た限り、大きな損傷はなし。
1階に降りるとちょうどそこへ、売場の主任が到着。
彼に後を託し、私は一駅先の江坂というところにあった本社に向かいました。
緑地公園にある私の店と、江坂の本社ではたった一駅しか離れていないのですが、
緑地公園は千里山という山の上で標高は42メートル。
江坂は標高2メートルという平地。
たった40メートルの差ですが山の上か下かで、ずいぶんと様相は異なりました。
江坂に着いたとたん、息を飲むような光景。
日本家屋の屋根瓦が落ちたり、明らかにひどい状況でした。
4階建ての本社に着いたら、すでに本社のスタッフ達、数人が出社して来ておりました。
中に入ってビックリ。
店内が水浸しなのです。
調べてみると屋上に設置されたタンクが破裂し、エレベータが上下する空間をつたって
水が流れ落ちてきた様子。
幸いにして洋服は濡れていませんでしたが、我々は手分けをして洋服や商品を濡れない
安全な位置に移動させ、床にたまった大量の水を外に出しはじめました。
と言ってもチリトリで水をすくってバケツに集め、それを外まで運んで流す、という
作業。
ようやく終わったときには時計は昼をすぎておりました。
全員が集まることはできませんでしたが、私と同じように取るものもとりあえず何とか
出社してきたスタッフ達と「昼メシを食べに行こう」と江坂の街へ。
当たり前ではありますが、いつもなら開いてるお店も全然開いてなく、ようやく見つけた
一件のお店で食事をすませ、また店に戻りました。
そのとき誰かが着けたテレビに映し出された光景を見て、我々は絶句し、
そこでようやく何が起きたのかを思い知ったのです。
そこに映っていたのは横倒しになった阪神高速道路。
ありえない光景で、まさに我が目を疑った映像でした。
「えらいことになった」
それからは当時、阪神間に15店舗あった支店に電話をかけて被害状況を一件一件確認。
中でも一番酷かったのは伊丹市寺本にあった伊丹店。
駆けつけたかったのですが、目の前を走る国道171号線が大渋滞でまったく動いてない状態だと。
連絡が取れないスタッフもいました。
自宅は神戸市東灘区で大きな被害を受けたことは想像できましたが、彼の安否を気遣いながらも
その時にできる自分のことをやるしかない。
復旧に向けてスタッフ達と手分けをし、何とか店が開けられる状態になったのは夜9時を回ってから。
スタッフを車で送りとどけましたが、終わったのは深夜になってました。
長い長い1日。
しかしスタッフ全員が無事だったのは不幸中の幸いでした。
東灘区のスタッフは木造家屋の1階にいて被災し、丸1日下敷きになっていたとのこと。
無事で本当によかった。
今でもあの日のことは忘れられません。